『フットボールの社会史』(著)F.P.マグーン,Jr/(訳)忍足 欣四郎
イギリスに生まれると「歩きだす前にボールを蹴る。」
イギリスで蹴球の歴史は、12世紀ごろから、記録をたどることができる。
ただ、協会式競技としてスタートしたサッカーとの共通点は、
たぶん、ボールを蹴ることしかない。
蹴球と呼ばれる球技は、権力者・教会からは嫌われた。
都会の善良な人からも疎まれた。
権力者は、闘いのためにボールを蹴るより、弓を持て、
教会は、告解火曜日(二月上旬から三月上旬の火曜日)は祈りの安息日にしろ。
なんども、お触れがでて、罰金を科せられた。
それでも、人々は蹴球をやめなかった。
ときには、司祭も参加した。
だから、たびたび国王や協会から禁令が出て、
逆に禁令や裁判の文書が、古の蹴球のにぎわいを語ってくれる。
蹴球を支持する文書は、わずかしか残っていない。
16世紀、リチャード・マルカスターが著した『提言集』で、
蹴球は全身を強く筋肉逞しくし、余分な物を下げることによって
頭や上半身の負担を軽くし、腸のために良く、
膀胱と腎臓から石や砂利を降ろす。
まあ、この程度の主張では、世間の評価は覆らなかった。
膝や足を骨を折り、血達磨になり、ときに殺人にまで発展する、
球技というより、格闘技。
路上での狼藉千万で、窓ガラスを割り、家屋を壊すのだから。
この事情は、19世紀になっても変わらない。
ある村での蹴球の報告だが、
毎年、告解火曜日に試合をするならわしが続いていて、
各チームの人数に制限がない。町の中央に橋があるが、
この橋の北側に住む人は皆一方のチームに属し、
(中略)橋の南側に住む人は皆もう一つのチームに属するのだ。
ゴールはお互いに三マイル離れており、二つの粉ひき場にあるのだが、
どちらも町から約一マイル半のところにある。
ゴールを主張するには、ボールを粉ひき場に付けるだけでなく、
競技者が水車用貯水池を泳ぎ渡って自分で建物に触れなければならない。
どこの村や町でも、結局いつものような結果になる。
目のまわり黒痣ができ、胸には打ち身をこしらえ、
脛の骨の折れたのが、勝利の印でもあり、敗北の印でもあるのだ。
言うまでもないことだが、これは、下層階級の楽しみであり、幼い時期に習得される。
満足に口の利けない幼児ですら先ず蹴ることを憶え、然る後に歩くことを憶える。
それでも、1928年の記録には、
当時皇太子でいらせられたウィンザー公爵殿下がショー・クロフトで始球式をなさった。
ほんとうに、蹴球は「忌み嫌われて」いたのか、
下層階級のみの球技だったのか、
本を読めば読むほど、わからなくなる。
それぞれの地方で、多様な球技だった蹴球が、
1863年、ロンドンで蹴球協会(FA)が創立され、
新しいスポーツとしてスタートを切ることになる。
日本に伝来したのが、明治六年(一八七三年)。
英国海軍軍人が築地の海軍兵学校寮に来ていた時に、サッカーを教えた。
それから130年、
東京外れの町田でも、Jチームが産声を上げる準備をしている。
ゼルビアにかかわる人たち-
サッカーの魅力に取りつかれ、
趣味を超えて生き甲斐にしてしまった人たちの顔が浮かぶ。
激しい雨の中でも、歓声を上げ、旗を振り続けるサポーター。
ゼルビアが好きでボランティアになったのに、
ボランティアになったために観戦できなくなった人たち。
その報酬は、誰もくれない。
自分の気持ちの中だけにある。
サッカーの深水にはまるたびに、自分の心の中に歓びを見つけてきた人たち。
ゼルビアにかかわって、そんな人たちに出会えただけでも、幸せだ。





