『もう一回蹴りたかった』望月重良
「デザインから、Jへ」 望月さんのキラートーク。
昨年2007年の暮れ、望月さんが事務所に訪ねてきてくれた。
サッカーの元日本代表。
うちの事務所は、私も含めてサッカーファンが多い。
興奮状態でお迎えした。
話を伺うと、相模原で、サッカーチームを立ち上げる。
Jリーグを目指す。
なおも驚くことに、
神奈川県3部リーグから始める、と言う。
しかも、そのチームで、雇われ監督をやるのではない、
オーナーとして経営するという。
さらに、
「ボクは、Jリーグを目指す。
だから、デザインは、最初からJレベルで行きたいんです。」
ぜひ、手伝ってください、と言う用件だった。
「デザインから、Jになる。」
とろけまんなァ、この口説き。
デザイナーは驚喜した。
デザイナーは誰だって、
こんな機会を夢に見ながら、仕事をしているのだ。
望月さん、この口説きのセンスなら、
なんでも、やれまっせ、と感嘆した。
サッカーのエリート街道をまっしぐらに走ってきた望月さん、
どこでこんな交渉術を磨いたのか、と疑問に思っていたが、
その答えは、この著書「もう一回蹴りたかった」に隠されていた。
エリートの望月さんに、挫折は、突如、2003年に襲ってきた。
この年、望月重良さんは、ヴィッセル神戸からジェフ市原に移籍した。
イビチャ・オシムが監督になり、
立て直しにかかったチームの背番号11を任された望月さん。
攻撃の中心として期待されていた。
しかし、開幕1週間前に左膝内側靭帯を痛めてリタイア。
出鼻をくじかれた望月さんは、
いったんベガルタ仙台へレンタル移籍する。
2004年にジェフに復帰するが、
本当の不幸は、ここから始まる。
左足付け根に激痛が走り、股関節の痛みが治まらないまま、
出場機会から遠ざかり、戦力外通告になる。
そして、この痛みは
「特発性大腿骨壊死症」と言う難病と知らされる。
医師は、いますぐ、サッカーを止めろ、と宣告する。
しかし、「もう一回蹴りたい」と言う思いで、治療に励む。
命を削るような辛さのリハビリにも耐え、
蓄えたお金もはたき、
やっと、横浜FCに復帰するまで回復する。
ただ、テスト生のような内容。
「4カ月契約、年俸0円、背番号は33番」
それでも、
「無理だと思っていたから、嬉しくて契約書にサインしただけで、
年俸の金額なんか目に入らなかった。」
2005年11月9日、2年ぶりにピッチに立つ。
徳島ヴォルティス戦との後半44分。
ロスタイムを入れて、わずか5分の出場だった。
「あの試合は俺にとって、1試合分の試合だった。
プロになっての初試合、日本代表での初試合、
それと同じくらい価値のある試合だった。」と振り返る。
その1週間後、後半30分から出場するが、
それが、望月さんの現役の最後になった。
闘病に耐えた成果は、わずか20分のピッチだった。
2007年1月31日、
日本サッカー協会に引退届を提出して、正式に引退した。
サッカー選手の書いた本だが、
サッカーの戦術本でも、成功話でもない。
鼻っ柱の強かった男が、
這いずり回るように生きた話。
その続編を、近くで見られるなんて、
僕らの仕事は、なんて幸せなんだろう。





