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おっちゃんの「日々こもごも」

2011年3月31日

日本の年号のすばらしい。

うちの会社では、毎週月曜日の朝に、主だったスタッフで会議をしている。
プロジェクトの進行状況を確認し合う。
昔は、私も出ていたが、
今年になってから、月に一度、月初の月曜会議だけの参加になった。

4月4日(月)が、その月初の月曜日。
わたしが進行役を務める日。
月によっては最初の月曜日が遅すぎるときがある。
だから、曜日を変更したりするから、
念のために、スタッフにメールで案内を出した。
「4月の月初の月曜会議は、4日(月)です。」
と、打ってみて、不思議な思いが横切った。

この「4日」は、「ある」のだろうか。
いつものように来る「4日」なのだろうか。
確信がない。
疑ったこともないことに不安を覚える。
地球はあっても、「4日」は存在しないかもしれない。

椅子に座っていて、歩き出そうとした時、どっちの足から踏み出せばいいのか。
ほんとうに、足は踏み出せるのか。
その足を床が受け止めてくれるのか。
そんな当たり前だったことを不安に覚える不安。
考えたことのない「いつも」が、宇宙人のように立ちあがってくる。

「いつも」感覚を喪失しかけている。
「いつも」は戻ってくるのか。
前と同じように戻ってくるのか。
たとえ、忘れる日々が続いたとしても、
電車を待つホームで、
テレビを見て笑い声を上げている時に、
「いつも」が、突然消えることはないのか。

日本の年号「昭和」や「平成」には、明日は約束されていない。
確約できるのは、過去だけだ。
「平成100年4月4日」は、地球上に存在するか、どうか、分からない。
しかし、2089年4月4日は、たぶん存在する。
人類がいなくなっても論理的には存在する。
少なくても、私は存在を疑わない。

明日があるはずだから、契約書にも、西暦は安心して使える。
逆に、日本の年号はいらない、と思っていた。
けれど、いま、日本の年号はすばらしい、と気づいた。
「いつもが約束されている明日」こそ、非論理的で非現実的だ。

「明日はないかもしれない」
「明日は今日の続きの明日は約束できない」
それこそ、真実の暦なのだ、と思いなおした。