2010年2月23日
自分が理解できないところがあるから、友なのか。
昨日22日が、19日に亡くなった友の前夜式、
今日23日が、告別式だった。
友は洗礼を受けていなかったが、牧師が執り行った。
友のお父さんは人権擁護の活動にも積極的な方で、
高名な牧師さんだった。
昔、山本七平さんが、彼と会った時、
息子と知って、感激されたという話を人づてに聞いたことがある。
しかし、彼は、キリスト教に帰依することもなく、
洗礼を受けていなかった。
彼は、まことに「マイ・ウエイ」の人物だった。
我がままではないが、
自分のしたいこと、できることに誠意を尽くした。
それに、どんな人間でも、
彼の前に立った人の思いを大切にし、期待にこたえようとした。
たとえ、裏切った人であっても、
少し時間をおいて、彼の前に立てば、
職に困っていると聞けば、職探しに走ったのではないか。
それは、わたしなぞには、理解しがたいところだった。
映画『おとうと』の撮影を追いかけた本『山田洋次』で、
その著者・新田匡央さんは書いていた。
この姉は弟という存在に振り回され、さんざん迷惑をかけられるけれども、
反対に弟と付き合うことによって得たものがあり、切り捨てていたら味わえ
なかったことを経験する。その体験こそ、姉の人生にとって大きな意味をも
つのではないだろうか。
わたしは、この亡くなった友に迷惑をかけられたわけでも、
振り回されたわけでもない。
そういう意味ではなく、
友とは、自分の人生の幅を広げてくれるものだと、
告別式で遺影を見つめながら思った。



